『船箪笥とは』の記事でご紹介した通り、船箪笥というと従来の日本の家具の中では特異なデザインで、しかも非常に豪華なものだという認識が一般化しています。しかし、すべての船箪笥が豪華だったわけではなく、実用的な船箪笥も存在していました。
むしろ立派なものは特殊で、一般には実用的で簡素な船箪笥の方が多かったのです。ところが、不思議なことに、日本海側、特に北陸地方には豪華なものが集中していたことが分かっています。
酒田船箪笥|富樫銘木様|現在は製作していません
それらを踏まえ、本記事では船箪笥全体の成り立ちから豪華な船箪笥の出現までの歴史を見ていきます。
船箪笥発展の歴史は、貨物船による物流システムの向上が大きく関係しているため、まずは日本全国の物流システムを支えた貨物船の発展の歴史を簡単にご説明いたします。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)から17世紀半ば過ぎまでは、主に幕藩領主の公用貨物が主体で、貢租米が積荷の中心でした。
この時期の船は500石程度の小規模なものでしたが、航路の開発準備が行われ、海上輸送の基礎が築かれました。
幕藩体制が確立した17世紀後半から18世紀前半には、各藩における城下町の建設により大消費地が出現し、商業的農業が展開され、日本の農業生産力が飛躍的に上昇しました。これを支えたのが海運の発展で、消費地が潤うことで海運も更に発展する好循環が生まれました。
この時期、海運業の運営は領主から次第に民間の商人主導によるものへと移行していきました。商人による海運で、江戸と大坂をつないだ菱垣廻船と樽廻船を皮切りに多様なルートが開拓されていきました。
菱垣廻船図|物流博物館所蔵
*当時の主要な海運ルート*
1.江戸-大坂間ルート(菱垣廻船・樽廻船)
2.東回りルート(秋田を北上し、津軽海峡を経て太平洋を南下し、江戸へ入るルート)
3.西回りルート(酒田を境に日本海側を南下し、下関、瀬戸内を経て大坂、江戸へ入るルート)
4.蝦夷-大坂間ルート
※3.西回りルート、4.蝦夷-大坂間に就航していたのが北前船
主要な海運航路
1の菱垣廻船・樽廻船は荷主の問屋から商品を預かり、船に積み込み、輸送先の相手に渡す配送業務を担っていました。この配送業を主とする経営形態を運賃積といい、運賃と諸経費が主な収入源でした。
その後、日本海側でも航路の整備が進み、2・3・4のルートが開通していきました。
船の改良も進み、逆風でも帆走可能な千石船と呼ばれる大きな船が主流となり、物流はさらに加速したのです。
18世紀後半から19世紀に入ると西回り航路が発展し、この航路を経由して蝦夷地と上方を往復したのが北前船と呼ばれる買積船でした。
買積船とは、荷主が自己資金で積荷を仕入れ、運んで売るという商業機能と運送機能を併せ持つ経営形態のことです。荷主と船主が同じであることが多く、運賃は販売価格に含まれていましたが、業務の中心は商取引であり、才覚次第で大きな利益を上げることができました。
運賃積と買積の比較
買積船の場合、積荷の質と量が利益に直結します。このため、稼働率の高い船が求められ、1500石から2000石積みの巨大な船に移行していきました。
また、利潤源は遠隔地間の価格差にあったため、国内市場が不統一で、経済的にも文化的にも地域間の格差が大きかった幕末から明治中期までが北前船の最盛期でした。
このような海上輸送の発達に伴い、船箪笥の需要も増加し、その製造が活発になりました。
19世紀以降、日本全体で商品流通が活発化し、海運業も隆盛を迎えました。北前船の最盛期は幕末から明治20年(1887)頃であり、この時期に豪華な船箪笥も発展しました。
特に造船技術の進歩が大きく影響し、積載量が大きく操縦性の良い商船が完成しました。明治に入り、各藩の輸出入税が撤廃されたことにより、商売がやりやすくなり、北前船の繁栄を支えました。この時期、日本海側の東北、北陸、山陰地方では経済状況が安定しており、船箪笥の需要が高まりました。
岳亭春信筆|出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
北前船の船主や船頭たちは、商売の才覚を生かして遠隔地間の価格差を利用し、大きな利益を上げ、高額所得者となっていきました。そして、その資金を元手に、豪華な船箪笥を所有するようになったのです。
また、買積船の船頭たちは、港に上がって廻船問屋で商取引を行う際に船箪笥を携行する必要がありました。その良否は船頭の才量を示す表徴でもありました。豪華な船箪笥は、船頭の成功と信頼を示す重要なアイテムであったため、豪華な船箪笥が発展していく背景には経済的な成功と社会的な地位の象徴としての役割もあったのです。
豪華な船箪笥を持つことで、商取引においても信頼を得ることができたことも豪華型船箪笥発展の背景のひとつです。
しかし、国内市場が統一され、地域間の格差も小さくなると、北前船の経営は難しくなりました。さらに、海運の近代化や鉄道網の整備が進むにつれて、伝統的な海運業は徐々に廃れていきました。明治18年(1885年)には500石以上の和船製造が禁じられ、日露戦役直後の法令により千石船に終止符が打たれ、船箪笥の歴史もここに終焉を迎えることとなったのです。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
大坂で始まった船箪笥製造は、海運業の発展に伴い、次第に各地に広がっていきました。冒頭で述べたように豪華な船箪笥は、日本海側の寄港地である北陸地方に集中しており、その主な産地として佐渡小木・酒田・三国が知られています。
北陸地方の船箪笥は、特に鉄金具のデザインが見事で、繊細かつ華麗であり、まるで鉄のレースのような作品もあります。木工技術では多種多様なからくりが工夫されており、素材の欅材も見事な杢目を持つものが使われています。不特定多数の船乗りたちを惹きつけるために、職人たちは知恵を絞り、工夫を重ねた想いが詰まっています。使用される材料も、欅や鉄、仕上げの漆塗りなど、すべて民間に許されたもののなかで最高のものを使用していました。
帳箱|出典『箪笥工房はこや様』
船箪笥が本格的に豪華になるのは明治に入ってからですが、すでに幕末にはかなり豪華なものが作られていました。
なぜ豪華型が北陸地方に集中していたのか、今回は佐渡小木に絞って、その歴史と発展の理由を見ていきます。
佐渡は金銀山を有し、慶長8年(1603)に幕府直轄領となりました。小木は上納金銀の積出港として栄えましたが、17世紀半ば(元禄期)から金銀山の経営が厳しくなり、享保期以降には完全に衰退し、島民は経済的に困窮しました。元々、島外への物資移出が禁止されていましたが、生活復興を求める島民の声に応え、幕府は宝暦元年(1751)に解除令を出しました。
これを機に船箪笥製造は小木にとって重要な収入源となり、小木が船箪笥の産地として発展していくきっかけとなったのです。
佐渡金坑図|出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
『佐渡年代記』や『佐渡細見帳』にも、小木の木細工が記されています。最古の船箪笥は函館市立博物館に所蔵されており、文化11年(1814)の「小木湊屋利八郎仕出し」という墨書が確認されています。このことから、佐渡では島内産物の他国移出が許可されるとすぐに船箪笥の製造が始まったと考えられています。
小木は幕府が定めた寄港地の一つで、佐渡島は日本海側を航行する船にとって極めて良港でした。水深が深く、入出港に大変優れていたことが分かっています。
当時の廻船(弁才船)は一本の帆柱に横帆で帆走するため、追風に乗って進み、逆風や荒天時には付近の港で風待ちする必要がありました。小木は上り・下りの船に都合の良い立地で、水深が深いため待避するのに非常に適しており、多くの船が長期間滞在する港に発展したのです。
小木港(琴浦地区)|出典『新潟県庁HP』
上陸した船乗達は船箪笥を購入し、小木が船箪笥の産地として評判を得ると、他の船乗達も小木を訪れる際に船箪笥を購入するようになりました。
風待港として大変優れていたことが、船箪笥産業発展の大きな下支えとなりました。
佐渡には欅、桐、漆などの材料が豊富でした。金銀山のおかげで鍛冶業が早くから発達し、木工職人もいました。小木港が賑わうと、職人たちが集まり、港の近くに工房を構えました。こうして小木には港を囲むようにして箪笥屋が集まり、船箪笥は佐渡の一大産業となりました。
全国に散在する船箪笥を調べると、佐渡製が圧倒的に多く、豪華な型も佐渡製が最も多いです。これは佐渡の材料と技術が優れていたことを示しています。
半櫃|出典『箪笥工房はこや様』
地政学的優位性、生産適性に加え、豪華型船箪笥が北陸地方で多く生まれた理由には、海運業の経営形態の違いも関係しています。
前述の通り、太平洋側の主力、菱垣・樽廻船は運賃積が中心で、運賃収入が主な収入源でした。一方、日本海側の北前船は買積が中心で、運賃積よりも収益性が高く、船主や船頭の収入が大きかったのです。
運賃積と買積の比較
買積船では、遠隔地間の価格差が船主の利益に繋がるため、単に船を動かす責任者であるばかりでなく、相場を見込んで商品を仕入れ、販売する必要があり、航行技術と商才が船頭には強く求められました。その代わり、商才がある船主は、運賃積の5倍近くの収益を挙げることができ、船頭の収入にも更に高くなりました。
これにより、莫大な資金を手にした北前船の船主や船乗たちは金に糸目をつけずに豪華な船箪笥を作らせる余裕があったのです。
また、船頭が上陸する際には、船箪笥も一緒に持って上がることが義務付けられており、船頭は問屋先に宿を取ることが多かったようです。必然的に、問屋と商談の際には、立派な船箪笥が商取引の一つの看板にもなりました。このため、船頭は立派な船箪笥を持つようになったのではないかと考えられています。
④船主の出身地
もう一つ、小木が船箪笥の産地として発展した理由に、船主の出身地が関係しています。
北前船の船主は、初期には大坂、瀬戸内、敦賀、近江の商人が中心でしたが、19世紀に入る頃から北陸地方の船主に替わり始め、幕末から明治にかけては越前、加賀、越中の船主が主流になりました。これには、上方や近江の廻船問屋に雇われて働き、資金が貯まると自分で船を購入し、独立するケースが多かったことが影響しています。
瀬戸内や上方の船頭なら大坂で船箪笥を調達しますが、北陸地方の船乗りにとって佐渡は便利でした。実際に、小木製と墨書された船箪笥を調べると、注文主が北陸地方に集中しています。
この点も、佐渡が船箪笥産地として発展した要因の一つです。
以上のような理由から、幕末から明治にかけて、小木は船箪笥の一大産地となりました。柳宗悦氏の『船箪笥』に収録されている元箱屋主人の手紙によれば、小木には大きな船箪笥屋が何軒もあり、それぞれ多くの職人を抱え、職人数は百数十人にも及んでいました。生産量を増やしても旧盆頃には品物が一つもなくなるほどの盛況だったといいます。船箪笥の需要は、船乗りたちの要望に応えたものであり、また海上という監視の目が届かない場所で使用されるからこそ豪華に作れたのかもしれません。
そして、船箪笥の歴史は、海運業の発展と密接に関わっています。佐渡小木を中心に豪華な船箪笥が生まれた背景には、佐渡の地政学的優位性、経済状況の変化、造船技術の進歩、商取引の習慣などが影響しています。実用本位の簡素な船箪笥が大多数を占めるなか、豪華な船箪笥はその美しさと実用性で特別な存在として船乗りたちに愛されました。
そして、船箪笥の美しさは民衆に受け入れられ、職人たちの創意工夫によって生み出されました。これは時代の限界の中で可能性を追求し、自らの才覚で生き抜いた船乗りと箪笥職人たちの命の結晶と言えるでしょう。
こういった長い歴史を経て、今も私たちの目の前でその威容を誇る船箪笥には、その一つひとつに特別な物語が刻まれているのです。
©️2024 Yamato meiboku Corporation.
〈参考文献〉
『柳宗悦集:私版本.第3巻 船箪笥』柳宗悦[著]春秋社(1974.5)
『船箪笥の話』越崎宗一[著]ゑぞ・豆本36号 北海道豆本の会刊行(1962)
『和箪笥集成』木内武男ほか[著]講談社(1982.6)
『箪笥 – ものと人間の文化史46』小泉和子[著]法政大学出版局(1982)
『和家具の世界』小泉和子[著]河出書房新社(2020)