奈良東大寺の北に位置する、「正倉院正倉(以下、正倉院)」には聖武天皇のご遺愛品を中核とした数々の宝物が保管されています。
和銅3年(710)、都が藤原京から平城京へ移った頃、寺院や役所、官庁の建設が相次ぎ、それぞれに重要な文書や品物を収める倉、通称「正倉」が必要になりました。
現在の正倉院も当初は「東大寺の“正倉”」と呼ばれていましたが、周囲の正倉の減少に伴い、東大寺のものだけが遺り、「正倉院」という名称が、この世にただ一つの固有名詞となったのです。
平成9年(1997)、建物が国宝に指定され、翌年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されました。
世界中の人々を魅了する正倉院の宝物がなぜ、1300年経った現在も色褪せずに伝承されてきたのか?その秘訣を建築の観点から紹介します。
「正倉」とは、最も重要な倉、もしくは主要な倉を意味しており、8世紀の奈良時代には都の平城京や地方の役所などに付置した収蔵施設で、正税などの穀物を納めていました。
「院」とは、建物を垣根や塀で囲むことを示しています。つまり、正倉院は「正倉」と呼ばれる重要な倉庫を垣根で囲った一郭を意味しています。
棟内部は3つの空間に区切られ、北から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれています。
正倉院は、東大寺の正倉であるため、東大寺の法要に関連する品々も収蔵されていますが、3つの倉それぞれに経緯の異なる品々が収められているのが特徴です。
写真右(北)から北倉・中倉・南倉
正倉院の歴史史料によると、「北倉」「中倉」「南倉」の3つの倉には、それぞれに管理担当者がいたことが分かっており、創建当時から、倉ごとに目的や性質の異なる収納品があったと考えられています。
それぞれの倉には、以下の宝物が収納されていました。
「北倉」:光明皇后によって東大寺大仏に献納された聖武太上天皇の御物・ご遺愛品
「中倉」:造東大寺司関連の正倉院文書や経典など
「南倉」:東大寺の大仏開眼会関連の什宝や法要関連品、東大寺諸堂の什宝など東大寺に関連する文書や宝物など
聖武太上天皇の御物を東大寺の宝庫に収納したのは、「御物を伝世品として広く、未来永劫に伝えたい」という明確な意志があったからと考えられています。
聖武天皇像(模本)蜷川親胤(式胤)模 出典:ColBase
その意志を実現するための施設として、校倉造で高床式の巨大倉庫「正倉院」が建設されることとなりました。
また、東大寺の大仏開眼会関連の什宝などの正倉としての保管機能も考慮され、内部を三倉(みつぐら)にしたと考えられています。
建設工事は東大寺大仏開眼後に開始され、天平勝宝七歳(755)には完成していた可能性が高いようですが、正確な年代は明確ではありません。
遅くとも天平勝宝8歳(756)5月2日の聖武太上天皇崩御の時点ですでに完成していたと考えられています。
崩御あそばされたことに伴い、光明皇太后は急変に応じ、綿密な計画を立て、聖武太上天皇の御物を一時的に喜捨することを決断なされました。
七七日(四十九日)には、盧舎那大仏に献上する珍宝の目録である献物帳が作成され、仏前に供えられた後、北倉に収められました。北倉が選ばれた理由として、三倉のうち北倉と南倉が校倉造であること、また聖武太上天皇が平城京の北に御したため位置・方角ともに近い北倉を選んだのではないかと考えられています。
盧舎那大仏(東大寺大仏)に献上された後、北倉に納められた
正倉院はいつごろ建設されたのか、より詳しく考察する調査が、平成14年(2002)以降、3度にわたって行なわれました。調査は正倉院に用いられている檜材を、年輪年代法という方法によって年代測定するものでした。
報告書によると、正倉院に用いられた檜材の伐採時期は、大仏殿の建築用材の調達時期である天平勝宝元年(749)とほぼ同じ頃で、建設時期は大仏開眼の天平勝宝4年(752)から聖武太上天皇崩御の天平勝宝8歳(756)頃と推定されています。
また、調査結果によると創建当初から北倉、中倉、南倉の三倉が一棟のもとにつくられていたことも示されています。
参照:年輪年代法による3度の調査を実施した光谷拓実氏の発表による
正倉院は東大寺境内の一区画に位置し、東大寺の大仏殿の北西約300mの場所に、東面を正面に建っています。宝物庫として直射日光を避けるべく、南面を避けたと考えられています。
出典:GoogleEarth
建物全体は、南北に長く大きな屋根がかかっています。正面である東面には、一カ所ずつ扉が配置され、三つの倉が横一列に並んでいます。
正倉院宝庫のサイズは、間口(南北)約33m、奥行き(東西)約9.4m、高さ約14m、床下は約2.7mもの高さがあります。天平時代の校倉造からなる素晴らしい巨大な木造建築です。
同じ校倉である唐招提寺の宝蔵や経蔵と比較してもその大きさは際立っています。また、頑丈な印象を与え、人の手が届かないほどの高床であることにも驚かされます。
瓦葺の校倉造、高床式の本格的な木造建築の宝庫
約1300年の星霜を経てきた巨大な宝庫「正倉院」は余計な装飾はほとんどなく、清楚で、荘厳な佇まいが印象的です。
檜材を使用した建築は大陸様式の建築以前からのわが国の木造建築の伝統です。造営は、大仏殿を造営した造東大寺司によるものです。
左右(南倉と北倉)は、大きな三角材を井桁に組み上げた校倉造(あぜくらづくり)と呼ばれる構造です。
その間に挟まれた中央(中倉)は奥と手前に厚い板壁を設えた板倉造です。
これらの三倉は、互いに独立した空間であり、内部はそれぞれ二階構造になっています。
上から「南倉」「中倉」「北倉」中倉のみ板倉造
「中倉」板倉造
北倉
木材を井桁状に積み重ねて、柱を用いずに屋根を載せる建築構造のことを指します。
木材のなかでも、真っ直ぐ成長し、細長い木材が得やすい針葉樹は、校倉造に向いています。そのため、校倉造の建築は、ロシア、中東、中国、北米、スイスなど世界各地の高山地帯に多い傾向があります。
写真は「手向山八幡宮 宝庫」の校倉造
しかしながら、木材の断面を三角形に仕上げた校倉造で、高床式にした意匠は我が国独自の工夫によるもので、改良を重ねて奈良時代には現在の正倉院の形状に発達したのです。また、三角材を使った校倉造は世界でもっとも進歩した形式とも考えられています。
正倉院の建築において、雨水の溜まりを防ぐことが最も考慮された項目と考えられています。雨の多い日本の風土を踏まえると、宝物を雨水から守ることが特に重要だったことが考えられます。
そのため、三角材を井桁状に積み上げて壁を構成することで、雨水の流れをスムーズにすることが発明されました。また、三角材の稜角を外側に配置することで、内部は平らな壁となり、実用性も高められました。
奈良時代の文献には、正倉院の校倉を甲倉(よろいぐら)と呼んだとされる記述もあります。外観が甲(よろい)の札(さね)に見えることからそのように呼ばれたとされています。宝物を保護のために三角材を校倉造に選んだことが、結果的に意匠性に富んだ日本特有の建築を生み出したといえます。
〔あとがき〕
正倉院に伝来した宝物は9千点にも及び、その多くは8世紀の天平時代のものです。1300年以上も経過した美術品が今もほぼ当初の姿を保ち、色鮮やかに現存していることは、まさに奇跡と表現しても過言ではありません。
年に1度開催される「正倉院展」は、正倉院に収められていた貴重な宝物が美術館で特別展示される非常に貴重な展覧会です。観覧を通じて驚かされるのは、その美しさです。色彩や形状、素材などすべてが鮮やかであり、古代のものとは思えないほど美しい状態が保れています。
前述の校倉造による建築に加えて、唐櫃(からびつ)と呼ばれる宝物を収納する杉の木箱、“勅封”という宝庫の管理システムの徹底、正倉院事務所での宝庫・宝物の保存管理、研究、修理など。
これら数多くの人々の情熱と執念が、宝物が現代へと受け継がれてきた根底にあります。
御物であることは勿論ですが、物を大切にする日本人の民族性を象徴した証が、正倉院宝物に表れているようです。
正倉院の建築を通じ、正倉院宝物の素晴らしさや伝承の秘訣に興味を持って頂ければ幸いです。
〈参考文献〉
『正倉院文書の世界 よみがえる天平の時代』丸山裕美子[著]中央公論新社(2010)
『正倉院宝物と平安時代』米田雄介[著]淡交社(2000)
『正倉院あぜくら通信』杉本一樹[著]淡交社(2011)
『正倉院宝物の輝き』大橋一章・松原智美[編著]里文出版(2020)