【特集】製材技術を通じ文化財保存事業に挑む株式会社ヤトミ製材
2011年3月11日、震度6弱の大地震と高さ18mの大津波が襲った陸前高田市 ー
市の死者・行方不明者を合わせ、1,700名以上の尊い命が犠牲となり、市街地は壊滅的な被害を受け、海岸沿いの約7万本の高田松原もほぼ流失。
そのような困難な中で、唯一耐え残ったのが、高さ27.7m、幹の直径約87cmの「奇跡の一本松」でした。
ところが、2012年5月、浸水した海水被害のため奇跡の一本松は枯死が確認されました。
そのまま枯死した原木として対応されることも考えられましたが、震災直後から人々に希望と勇気を与えてくれた一本松を“復興と希望の象徴”として、遺すべきと多数の声が集まり、国内外からの募金によって後世に受け継ぐためのモニュメントとして保存することが決定しました。
震災後の奇跡の一本松
そして、この奇跡の一本松を文化財として保存に携わった製材会社が、愛知県弥富市に拠点を置く老舗の製材業者「株式会社ヤトミ製材」でした。
会社の前身である曽祖父の代から数えると5代目となる約120年続く会社で、独自の優れた製材技術を活かし、誰も実現できなかった高難度の文化財保存事業を請け負い、日本の銘木の保存事業に貢献しています。
誰にも出来ないような高難度で独創性を必要とする、まさに行き場を失ってしまった銘木製材の受け手として、ヤトミ製材は『最後の砦の意識』をもって製材業に取り組んでいます。
今回は“製材業を通じ、森を守る”という信念を持つヤトミ製材様の文化財保護事業に懸ける思いを詳しくお伺い致しました。
初代・加藤 嘉兵衛が東郷平八郎元帥指揮の海軍に入隊し、日露戦争の功績による報酬金を元手に、愛知県一宮市で下駄屋を始めたのがヤトミ製材の原点です。
下駄屋経営の傍ら、息子である義雄が下駄の材料の仕入れ先で修業して製材を学び、そのノウハウを活かし、自社で製材業を始め、ヤトミ製材の前身「加藤製材所」が発足。
直径3〜4寸の国産松を小さなバンドソーで製材し、梱包材(箱材)を主に出荷していました。
しかし、その後戦争が激化し、加藤製材所諸共、一宮市一帯は焼け野原に。当時、小学生だった加藤幹雄・晃雄は岐阜へ疎開しました。
一宮市の工場群_空襲の様子
出典:「総務省HP」
終戦後、名古屋市中区に戻ってきましたが、空襲で家も工場も全て焼け、戦後の名古屋にあったトヨタの工場で半分焼けた製材機やその他の機械の一部を買い取り、修理して据え付けて製材業を再開。
二代目・加藤義雄主導の元「加藤製材所」が再始動しました。
ヤトミ製材_工場内部の様子
軌道に乗り始め、より大きな製材機を導入した矢先、義雄が鋸を製材機にかけてハンドルを回して鋸を張っていた作業中に突然、脳梗塞により45歳で死亡。
当時高校生で頻繁に手伝っていた長男・幹雄が社長、次男・晃雄が工場長として会社を存続させました。母と幹雄、晃雄の3人で大変な苦労を重ねて、丸太の仕入と製材を続けたそうです。
その後、一大決心をして新堀川沿いに土地を手に入れ、工場を建設して製材機も購入する事になりました。
当時の幹雄・晃雄の心境として「母と6人兄弟を食わせなければならない」という使命感のみで働いていたそうです。
製材機械は一流会社のものには手が出ず、静岡の油圧メーカーで製材分野に進出してきた新参の田中機械に依頼して購入。最新の電気システムが導入されていたのですが、始めは故障ばかりで晃雄が毎日毎晩、毎週末修理していたそうです。
しかしながら、空圧やモーターが製材動力主流の中で、“油圧シリンダー”という更に力の強いシステムが幸いし、フィリピンから大量に輸入され始めた直径1m超えのラワン材の製材に大変強みを発揮しました。
適切な利益を出せるようになり、大型製材工場を四棟建て、弟達をそれぞれの工場に専務として就かせることができました。
加藤晃雄(現会長)が製材している当時の様子
ちなみに、現会長の父・義雄が倒れた際にも使用していた手動のハンドルで鋸を張るシステムは、現会長・晃雄の依頼で田中機械にモーターで張るシステムに開発変更してもらい、現在もそれぞれの製材機械に付いており、受け継がれています。
鋸を張る機械内部
その後、日本は高度経済成長期に突入。加藤製材所には三男・四男も加わり一大勢力となりました。
しかし、平成9年(1997年)に其々が独立。
次男・晃雄は、会社を「株式会社ヤトミ製材」と改め、油圧式大型製材機を武器に、長さ14m・直径2.5m・巾1.8mの原木加工を可能とする日本有数の製材企業へと押し上げました。
製材された木材は、ピアノやギターなどの楽器、高級一枚板テーブル、無垢のフローリング材、住宅、競艇用ボートなどに使用されています。
現社長・加藤 徳次郎は大学卒業後にシンガポール、マレーシア、アメリカに渡り、1年間ラミネート工場等で工場長としてのキャリアを積む。帰国後、ヤトミ製材に入社。文化財保護事業や水中乾燥事業に着手するなど難易度が高く受け皿がない木材流通の最後の砦として大きな貢献を果たしています。
愛知県弥富市(株)ヤトミ製材
これまで数多くの文化財保護に挑まれてきた、ヤトミ製材。
その取り組みは困難を極め、並大抵の技術や想像力だけでは実現しないことも覚悟の上だったといいます。
蓋を開けてみると、予想外の連続で、不条理なことも沢山あり、お納めした後は車椅子に乗ることになるほど心身ともに追い込まれるとのことですが、「何故、それほどまでして文化財保存を事業として進められるのか?」尋ねてみました。
西八龍神社_御神木保護の作業
文化財保護事業に関して、振り返ると「よくこれを受け入れたな」「良くこれ考えたな」と思うことばかりだそう。出来るかどうか分からないけれど、「はい、やります」と受け入れる姿勢・体制を貫いて、後悔したことはないと加藤社長は言い切っています。
「最初は無謀だと感じる内容でも、ひたすら考える。ずっと考えて考えて、ようやく出来るという自信が湧く。凄い赤字だけど出来るなって(笑)」
ひたすら考えていくと、加工前になって想像もしていなかった妙案を夢で見たりして、機械屋に図面を見せて、進んでいくこともあるそうです。
一本松の保存作業の為だけに作ったアイデア満載のチェーンソー式穴あけ機械(弊社実用新案登録 第3184865号)
「途中でやめようと思わなかったんですか?」と、新聞社に聞かれた際も、逃げようとは一回も思わなかったという。
「受けたい・やりたい・挑戦したい」という血があるそうで、引き受けるのは血筋なのだと答えて下さいました。
「より良いものを出荷する。お金にならなくてもより良い物を販売する信念があるので、単にお金になるだけの仕事は受けないことにしています」と、加藤社長。
日本全国には多くの御神木が存在しますが、倒木や必要に迫られて伐採されることがあります。残念ながら、このような倒れた御神木に対して価値を見出す人がいないのが現状です。
加藤社長は、自分の会社が特別な存在ではなかった頃から、「国から表彰されるような仕事をしたい」という思いを抱いてきました。その思いの根底には、御神木や育む国土に対する崇敬の念があり、そして“製材という仕事を通じて森を守ることにつなげたい”という強い願いがあるそうです。
そのような御神木の受け皿として、「困った時に頼れる存在としてヤトミ製材が存在する状況を目指して事業をしています」
西八龍神社_御神木保護
これまで、「奇跡の一本松」「帆船のマスト」「西八龍社の御神木」「山車の車輪」など、御神木や巨樹を製材して象徴として遺してきた実績があります。
一般的な製材とは掛け離れた技術と独創性によって、世間が求める要望を叶えてきました。それもひとえに国内外問わず数々の丸太を製材してきた経験と知恵がベースにあり、また油圧式でパワーが強い大型製材機で製材してきたことが大いに役立っています。
加藤社長によると、保存プロジェクトに携わった人は数千人に及んだそうですが、本当に責任を持つことができる数少ない人間で成し遂げられた困難な仕事だったそう。計画が壮大で難易度も高く、依頼主は全国を回って実行できる人を探して、ヤトミ製材を訪ねて来られました。
担当者から「これはできっこないですよね・・・」と投げかけられるなど深刻なムードで始まった打ち合わせでしたが、「できる人間を集めて、やり遂げましょう」と加藤社長が応じ、なんとかプロジェクトがスタート。
最初の計測に失敗したまま一本松が伐られてしまったり、依頼側との設計図のやりとりに苦労し、角度の違いにより大規模な修正を余儀なくされるなど…。
相当な苦労があったそうで、心身の消耗が激しかったことが想像されます。
しかし、一本松の保存事業のためだけに金物屋と特注で製作した『チェンソー式穴あけ機械』の採用が功を奏し、見事に事業を成し遂げ、納めることが出来ました。
その「奇跡の一本松」は、今も復興の象徴として人々に勇気と希望を与えてくれています。
奇跡の一本松保存事業
3本に切断
切断した3本を繋げる芯を通すため、中心をくりぬく
2013年には、宮城県サンファン館から依頼された、1613年(慶長18年)に太平洋を往復した木造洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」のマスト3本を製作しました。
この時も、奇跡の一本松を加工する際に使用した機械で成功に導きました。メインマストは長さ32.43メートル、3本の丸太を繋いでできています。大型クレーンで慎重に吊り下げられ、船底にあるマスト用架台受部に固定されます。
大径木からマストを取る
奇跡の一本松の際に活躍した特殊製材機で加工
マスト加工完了
約32mのマストを仮組み
「サン・ファン・バウティスタ号」に設置
ヤトミ製材は積極的に社員を募集し、製材業や文化財保護事業に加えて、水中乾燥事業も行なうなど、事業の幅は多岐にわたっています。以前、私も製材を依頼したことがあり、ヤトミ製材の社員の方々の素晴らしい挨拶と木への接し方に非常に感銘を受けました。また、社員の皆さんが一体となって同じ目標に向かって意識を統一している素晴らしい会社だと感じました。
加藤社長によれば、最も大切にしているのは「人」だそう。ずいぶん前には製材業の将来について深刻な懸念を抱いた時期もあったそうです。
しかし、ある旅行先で立ち寄った会社で、「人と機械を守れば、必ず勝つことができる!」と、決心できた出来事があったそう。
その日を境に、以前にもまして人材と機械のメンテナンスに時間とお金を惜しまず投じるようになりました。
加藤社長は続けて、「海外からの木材流通が滞っても、日本は木の産出国であり、流通が激減することは考えにくいです。そして、大型製材機を守るためにハイパワーな機械が必要であり、それによって他では扱えない御神木や巨樹の製材事業や文化財保存事業に取り組むことができました」と自信と誇りを持って語っています。
製材後はすぐに割れ留めを塗布
素材によっては重機ではなく、人手で製材後の素材を扱う
業界の酸いも甘いも経験する加藤社長だからこそ実感したのが、業界を悪習慣にした“責任を持たない姿勢”。
「適正な価値以上の値段で材を販売するといった悪習慣を断ち、より良いものを出荷すること」と、加藤社長。
お金にならなくてもより良い物を販売する姿勢を貫くことで、目先の利益よりも顧客との信頼関係を大切にするがヤトミ製材の成長の源泉になっているようです。
トチノキは時期によってはカビや青が入りやすいため、製材後すぐに水分を抜く必要があるため、暫く立てたまま乾燥させる。樹種によって異なる対応を行なう。
桟木の位置にも気を配り、乾燥させている
『最初に触れた機械で、その人の製材技術が決まってしまう』という言葉がある通り、大型製材機があることによって、それに慣れてしまえば2号機・3号機(小型製材機)は問題なく扱えてしまうそう。
機械や鋸が大きくなると、そのぶん大きな遠心力が働き、必然的に扱いが難しくなります。
「丸太はどこからでも挽けますが、決断することも技術なんです」
この丸太はここで挽くという判断と決断をして実行するのも技術だそう。
「電気式の製材機が一般的ななか、ヤトミ製材の大型製材機は油圧式でハイパワー。そのため、鉄の限界(どこまでいったら鋸が耐えれるか)を知り尽くして扱っているのが強みです。だからこそ、他では受けきれないような難しい要望に対しても対応できます。大型製材機を操作する腕前、度胸、精神的なところを兼ね揃えた製材師を育てて行くのが次の使命です」
どの位置で製材機で載せるか見極める
ミリ単位で鋸を入れる角度を見極める
日頃からメンテナンスが行き届き、皆がメンテナンスできる状態を保つ
〈あとがき〉
戦争によって一度は自社工場が焼け野原になり、先の見えない絶望感に包まれたこともあったかと思います。
また軌道に乗った矢先の突然の死別や試練など…
想像を絶する苦労があったことと思います。しかし、ヤトミ製材では世代を越えて“製材師”としての仕事の極意が引き継がれ、いま私たちに感動を与えてくれる銘木の流通を支えています。
製材はまさに巨樹に新たな命を吹き込む瞬間に立ち会う重要なお仕事です。
その可能性を広げ、“製材を通じ、森を守る”ことに繋がることを切に願っております。
製材を通じて御神木の保存、文化財の保護をお考えのお客様におかれましては、ぜひ一度ヤトミ製材を訪ねてみると光明が見えるかもしれません。
ヤトミ製材様の取り組みをご紹介することで、少しでも皆様のお役に立てれば幸甚です。
取材にご協力いただきました、(株)ヤトミ製材 代表 加藤 様、営業部長 加藤 様、社員の皆様、誠にありがとうございました。
©️2023 Yamato meiboku Lab.
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