伊勢神宮の式年遷宮を支える御杣山の変遷

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伊勢神宮の式年遷宮を支える御杣山の変遷

「式年遷宮」とは、伊勢神宮において20年に一度行われる神事であり、現在まで約1300年間にわたり、途絶えることなく受け継がれてきました。

お祭りは、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)の大御神様に20年ごとに新たな神殿が建てられ、お宮遷りが行われる、神宮最大のお祭りです。

 

新しい神殿を建設するために必要な木材は「御用材」と呼ばれ、これらの材料を伐り出す山は神聖な神が宿る山として「御杣山(みそまやま)」と呼ばれています。

1回の式年遷宮にて、およそ2600本から1万本の檜材が、神聖な使命を果たすためにこの御杣山から伐採されてきました。時代の変化に伴い、御杣山も大きな変遷を遂げてきました。

 

本記事では、御杣山がどのように変遷してきたのかに焦点を当て、その歴史を紹介していきます。



 

目次

1.御杣山(みそまやま)とは?

式年遷宮の造営に必要な御用材を伐り出す御杣山は、神聖な場所として厳格な管理がなされてきました。

皇大神宮(内宮)の御杣山は鎮座以来、神路山とされ、 豊受大神宮(外宮)の御杣山は高倉山でした。位置的に、内宮外宮ともに神社後方に広がる山を御杣山として指定されていました。

この神聖な山々は宮域林(きゅういきりん)、一般的には神宮林と呼ばれています。

神宮宮域林:神路山・島路山

内宮外宮ともに御杣山は神社後方に広がる

両宮殿舎の建築に必要な御用材は、例えば寛永6年(1629年)には内宮1277本、外宮1323本という相当な数の大木が必要でした。

これらの御用材を確保するために、広大な山々である神路山や高倉山からの持続的な供給はしばしば困難を伴い、回数を重ねるにつれて御杣山を他の場所に移す必要が生じてきました。

 

次章では、内宮、外宮それぞれの御杣山がどのように変遷を遂げてきたのか詳しくご紹介していきます。

 

2.御杣山の変遷(内宮)

内宮では以下の通り、およそ11回にわたり、御杣山は移動してきました。

内宮_御杣山の変遷

 

◆第1〜17回/690〜1002年(飛鳥・奈良・平安時代)

御杣山・神路山

遷宮創始以来約320年間は、内宮後方にひろがる神路山から御用材は伐り出されてきました。しかし、回数を重ねるごとに次第に大材の供給が困難になってきていました。

 

◆第18回/1019年(平安時代)

初めての御杣山の移動

後一条天皇の寛仁3年(1019年)、初めて御杣山が移動し、内宮正殿の御用材が三重県志摩市国答志郡(現鳥羽市)に求められました。

 

移された理由として、神路山に適材がなかったことが起因ではなく御杣山である神路山において何らかの不浄(穢)なことがあったため18回は御杣山を移さざるを得なかったと推察されています。

しかし、神路山の御用材に適した木材が徐々に減少しているのは変わらず、20年後の長暦2年(1038年)の第19回では、鈴鹿山の木材を用いようとしたが結局用いられたなかったと記録が残っています。

国答志郡

◆第19〜32回/1038〜1285年(平安・鎌倉時代)

ふたたび、御杣山は神路山へ戻される

その後、第19回から第32回までは、本来の御杣山である神路山から御用材が伐り出されました。

しかし、神路山から御用材に適した木材を伐出することが次第に困難を極めたため、第33回以降、御杣山の移動が本格的な検討事項となりました。

 

◆第33〜34回/1304〜1323年(鎌倉時代末期)

本格的に御杣山が移されることに

御杣山を他山に移す際に、白羽の矢が立ったのは、内宮の側を通る宮川の上流に当たる現在の三重県多気郡宮川村絵馬地内の絵馬山でした。

これまでよりも距離が遠くなりましたが、宮川の川の流れを利用し、上流に位置する絵馬山から川を下して、御用材を内宮まで運び入れました。

続く、第34回内宮遷宮も絵馬山が御杣山ですが、神路山からも伐り出されているため、神路山と絵馬山の両方の木材を採用したと考えられます。

絵馬山

 

◆第35回/1343年(南北朝時代)

政治的な理由による御杣山の移動

康平2年(1343年)の第35回内宮遷宮では、前述の絵馬山ではなく設楽山(現愛知県北設楽郡設楽町)へ御杣山が移されました。

これは、南北朝時代の戦乱による政治的な原因によるものが大きく、絵馬山より伊勢への道中は南朝方北畠氏の拠点であったことから、伐出運材による支障があったことが主な理由とされています。

設楽山

◆第36〜40回/1364〜1462年(南北朝〜室町時代)

美濃山からの御用材の伐り出し

正平19年(1364年)の第36回から40回までの内宮遷宮では御杣山が美濃山北山へと移されました。当時の記録が簡易的なため美濃山北山の詳細な場所の特定ができていません。

 

寛正3年(1462年)の第40回は、中世最後の式年遷宮と呼ばれ、散々な有様であった諸殿舎を、足利義政及び造営使大中臣秀忠の出資による造営費2万8千貫によって執り行われ、これが室町時代最後の正遷宮となりました。

その後、役夫工米による遷宮費の徴収が難しくなり、天正13年(1585年)の第41回まで、123年間内宮の正遷宮は行われませんでした。

美濃山



 

◆第41〜46回/1585〜1689年(安土桃山〜江戸時代)

同年遷宮、両宮共通の御杣山の始まり

第41回の式年遷宮は、慶光院清順・周養の勧進によって織田信長より3千貫文の御造営費が献納されたと記されています。

内宮においては実に123年ぶりの再興。外宮においては22年ぶりの正遷宮となりました。

 

これまで内宮、外宮はおよそ2年違いで式年遷宮を迎えてきましたが、第41回(1585年)から直近の第62回の平成25年(2013年)の式年遷宮まで同年に遷宮されることが慣例になりました。

 

御杣山についても、これまでは内外宮はそれぞれ別々に御用材を求めてきましたが、第41回からは、両宮ともに同じ山から御用材を伐採することになりました。

第41回〜46回の御杣山は、紀伊半島の最高峰である大杉谷(大杉山)を指定されました。

 

当時の記録によると、以下の点が明記されています。

①伐採においては立ち木の位置(東西南北)の印をつけること

②棟持柱等の長大材は最初に出伐すること

③宮川へ着岸した材はくじ引きにて両宮に分け、外宮のものは宮域へ曳入れ(陸曳きおかひき)、内宮の御用材は五十鈴川の鹿海橋まで回送し、そこから郷民の曳入れを行なうこと

 

第42回の正遷宮は、徳川家康により執行されたものであり、織田信長・豊臣秀吉の意志を継いだものであろうと考えられます。

第43回は、御用材が鹿海に着いた時点でお木曳が始まることになっており、この頃既に恒例となっていたと判明しています。

 

寛文9年(1669年)の第45回は、天正以降、遷宮に関与していた慶光院の手を離れ、ようやく神宮主体の遷宮形態になりました。御杣山は大杉山でしたが、既に第42回から44回までの遷宮時より御用材の適木が少なくなっており、殊に大木は求め難く、多くの御用材が洞木朽木であったとの記録が残っています。

 

元禄2年(1689年)の第46回も御杣山は、大杉山でしたが、谷奥にて伐り出した木材も多く、伐り出した山も11箇所と区域も広くなり、搬出に困難を来たすようになってきました。

 

苦労して伐出したにも関わらず、寸法表(吟味帳)とは異なり、板幅の広い物や狭い物も混同していたため、御正殿の壁板1尺6寸幅(約48.5cm)のものは木取りできませんでした。また、御用材に不足があることも判明し、二枚剥にしていたものを三枚剥にするなどして寸法を合わせました。

 

棟持柱2本には、曲がり及び入り皮が入っておりましたが、大杉山には替え木がなく、奥山にあっても伐出できず、棟持柱としては寸法不足ですが、現在到着している御用材の中から使用することになりました。

 

第46回の反省を次回以降に活かすため、『以後の御造営の際には、大木の調査を済ませてから御杣山を選定し、切り出し始めるように』と御杣山の選定について強く念を押した記述が残っています。

このことからも既に大杉山の御用材に適する檜はほとんど伐り出されたことが判明しました。

大杉谷(大杉山)

 

◆第47〜50回/1709〜1769年(江戸時代)

木曽山への御杣山の移動

厳格な御杣山の調査の結果、御杣山は木曽山の湯船澤の湯船山に決定しました。

当時の資料によると、材積は現在の農林規格に換算すると内宮原木本数1323本(2270.283立米)、外宮原木本数1323本(2312.257立米)でした。

第48回の記録によると、御用材はすべて木曽川へ流され、錦織にて御用材が尾州藩から神宮側へ引き渡されました。

錦織にて受け取った御用材には1本毎に造営の印である太一(大一)の伐判を施し、筏に組み、木曽川河口の長嶋領大嶋まで流送し、大嶋より伊勢の大湊までは、小工1人ずつを乗せて送り出しました。

ク…宮内庁
大一…神宮用材
上…上松出張所

大湊へ着岸すると、両宮の丈尺帳によって木分けし、恒例により内宮分は鹿海まで、外宮分は宮川へ曳上げ宮域へ引き入れる御木曳きとなりました。

この時の御用材の本数も一宮宛1323本でした。

湯船山

床堰の様子

 

◆第51回/1789(江戸時代)

大杉山、御杣山として最後の役目

寛政元年(1789年)の御杣山は、大杉山へ再び移されました。木曽山での伐出箇所が15箇所と広範になり、且つ一層険しい谷に巨木が集中していたことから尾張家より伐出を拒否されたことが大杉山へ移された大きな理由とされています。

そして、この第51回の御用材伐り出しを終えた大杉山は、ついに檜を伐り尽くして御杣山としての役目は終わりを告げたのでした。

 

◆第52〜55回/1809〜1869年(江戸〜明治時代)

本数を増やし、中小材で寸法通りに仕上げるように

文化6年(1809)の両宮式年遷宮の御杣山については、再び木曽山へ移ることになりました。この頃より、搬出が容易な巨材はほとんど少なかったことから、本数を増やして伐出し、材を繋いで一つの素材として利用することで寸法通りに仕上げるようになっていきます。

 

第55回は幕藩体制による最後の遷宮であり、この頃既に尾張藩の用材などを伐り続けたため、檜の大材は尽山になっていました。一方、湯船澤山は尾張藩においても、御神山と称し、藩の用材も伐り出しせず神宮備林として御用材保護のための管理と将来に対する配慮を施策として取り入れていました。

 

尾張藩は管理を徹底的に行ない、神宮備林として管理していた山林は自藩の用材の伐り出しにも用いなかったほどでした。その後の遷宮に備え、大材を必要最小限に抑え、中・小材をもってあて、本数は目録の2倍ほどになりましたが、材積においては約半数になっていることからも御用材不足が逼迫していたことが窺えます。

木曽山

◆第56〜62回/1889〜(明治〜現代)

第56回から現在に至るまで、長野・岐阜両県にまたがる木曽山を御杣山として今日に至ります。

江戸時代以降の徹底した御杣山の管理が奏功し、現代にまで御用材を適宜寸法通り納められるよう受け継がれてきました。

江戸時代以降の御杣山の管理については、こちらの記事をご参照ください

 

第62回式年遷宮では、約13,000本の御用材が用いられ、61回までは木曽檜100%でしたが、62回は75%が木曽檜で残り約24%は内宮の南側にひろがる宮域林で調達され、主に外玉垣などの御垣類に使用されるなど、遷宮創始以来の御杣山も復活しつつあります。



 

3.御杣山の変遷(外宮)

外宮_御杣山の変遷

 

◆第1〜30回/692〜1249年(飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代)

御杣山・高倉山

第1回以来、およそ560年間は、外宮後方にひろがる高倉山から御用材は伐り出されてきました。しかしながら、内宮と比較して、外宮の御杣山・高倉山は面積が狭小であるため、内宮よりも先に御用材に適した木材が伐出できなくなり、第31回からは御杣山を他山に移さざるを得なくなりました。

第30回までの間においても、第24回には御祝木である御船代等の御用材が高倉山から求められなくなり、宮川を遡った森林より伐り出されています。

内宮外宮ともに御杣山は神社後方に広がる

 

◆第31〜34回/1268〜1325年(鎌倉時代)

高倉山以外での初の御用材伐り出し

外宮において、高倉山以外の他の山の名称が記述として歴史に登場するのは、文永5年(1268年)の豊受大神宮第31回式年遷宮において、“阿曽”山という名称が出てくる。阿曽山とは宮川の支流である大内山川に沿った現在の三重県度会郡大宮町阿曽地内であり、皇大神宮別宮滝原宮のすぐ上流に位置します。

以来、外宮の御杣山は正中2年(1325年)第34回式年遷宮における御用材の伐り出しまでは阿曽山の料材によって執り行われたものと推察できます。

阿曽山

◆第35〜40回/1345〜1563年(南北朝〜室町時代)

129年の中断

貞和元年(1345年)豊受大神宮第35回式年遷宮の御杣山は美濃国白河山とされました。場所の特定は諸説ありますが、美濃山は現在も木曽山がヒノキの産地として有数の林業地であり、既に林業技術もある程度発達し、木材係留装置等の設備もあったと推察されるため、林政史上からもヒノキの重要な林業地であったことが御杣山に選ばれた理由と推察できます。

 

永享6年(1434)の第39回式年遷宮からは129年間も式年遷宮が途絶えてしまいます。この間、数回の仮殿遷宮によって雨露を凌いできましたが、慶光院清順上人の勧心によって永禄6年(1563)にようやく第40回外宮の式年遷宮が行われました。

 

この時の御杣山も美濃山で、美濃山において伐り出された大小2千本に余る御用材が木曽川を流送され、錦織或いは犬山にて筏組されて、桑名を経て大湊に着岸しました。

また、この時には外宮高倉山の檜7本も御料材として使用されています。

錦織、犬山

 

第41回以降は、内宮とともに同じ御杣山から御用材が伐り出されているため、上述【内宮の御杣山の変遷 】第41回以降をご参照ください。

 

〈あとがき〉

古来より、日本人は木に神様が宿るとして、如何に木を尊重してきたかが御杣山の変遷を辿ることで、分かってきました。

御杣山を守る取り組みにおいても、先々の式年遷宮を護っていくことは、私たちの生活を守っていくことに繋がっており、その意志は現代の私たちにも脈々と受け継がれています。

 

世界最古の木造建築物・法隆寺、白鳳時代の古代建築・薬師寺など…

地震大国の日本で、崩れることなく1300年以上、その姿を今に伝える古代建築はほぼ檜が用いられています。

宮大工として名高い故・西岡常一棟梁も「檜は神様や」という言葉を残すほど、檜という木には木材としての力以上に、私たちに感動と神様を見出す生命力に溢れた銘木であると断言できます。

 

約1300年間、途絶えることなく受け継がれてきた式年遷宮の歴史を御杣山の観点からご紹介することで、山々の緑鮮やかな自然風景は先人たちが私たちに遺してくれた財産なのかもしれないと感じました。

本記事を通じ、式年遷宮の歴史や山林を眺める視点に少しでもお役に立てば幸いです。

 

©️2023 Yamato meiboku Lab.

 

【参考文献】
『林業技術 No.637 伊勢神宮式年遷宮御用材の供給(前編)』坂口勝美(1995)
『林業技術 No.638 伊勢神宮式年遷宮御用材の供給(後編)』坂口勝美(1995)
『神宮御杣山の変遷に関する研究』木村政生著 国書刊行会 (平成13年3月12日)
『林経協月報 神宮御用材 その後』乾林業株式会社 木村敦子 (2005)