20年に一度、伊勢神宮では、「式年遷宮」という特別なお祭りが執り行われてきました。このお祭りは、現在に至るまで約1300年という長きにわたり、古代から連綿と受け継がれてきた日本の伝統文化を今に伝える貴重な神事です。
式年遷宮では、天照大御神をお祭りする皇大神宮(内宮)と、衣食住の神様とされる豊受大御神をお祭りする豊受大神宮(外宮)の大御神様に、20年ごとに新しい神殿が建てられ、お宮遷りをいただく、神宮最大のお祭りとして伝えられてきました。
その歴史は非常に古く、遡ること天武天皇14年(685年)に天武天皇が遷宮制度を制定し、持統天皇4年(690年)に内宮、持統天皇6年(692年)に外宮で最初の遷宮が行われて以来、約1300年以上も受け継がれてきました。
新しい神殿を建てるために必要な木材は、およそ1万本にも及び、日本が自然に恵まれた森林大国であるとはいえ、檜材を20年ごとに調達するのは、大変な努力が払われてきたことが当時の資料からもうかがえます。
先人たちが守ろうとした山林は現代に受け継がれ、いま私たちが眺める美しい山々に繋がっています。そこで、御杣山を護ってきた当時の方々の取り組みは日本の林業の出発点であると考え、“林業”の第一回にてご紹介しようと思います。
この記事では、式年遷宮の御用材が伐り出される御杣山(みそまやま)がどのように保護され、継承されてきたのかご紹介していきます。
20年ごとに造り替えられる神殿の建築様式は、唯一神明造(ユイイツシンメイヅクリ)と呼ばれ、柱は円柱の掘建式で、屋根は切妻造の平入りで萱葺き。棟の両端を棟持柱(ムナモチハシラ)で支える、弥生時代にまで遡る高床式穀倉の伝統様式の原型を今に伝えています。
唯一神明造_外宮正殿模型 写真『伊勢神宮せんぐう館提供』
初めての式年遷宮は、持統天皇4年(690年)に皇大神宮(以下、内宮)、その2年後の持統天皇6年(692年)に豊受大神宮(以下、外宮)にて執り行われました。
最初の遷宮から、平成25年(2013年)の第62回まで、実に1323年もの長い歴史が続いています。
厳密に20年ごとではなく、おおよそ20年の間隔で遷宮が行われ、外宮は内宮の2年後に遷宮されるという慣習が安土桃山時代(第40回遷宮)まで続いていました。
歴史の中で、室町時代には約120年間(外宮は129年間)の中断があり、また終戦時におけるGHQの神道指令により、継承が難しい時期もありました。しかし、それらの困難を乗り越え、伝統は今日まで受け継がれています。
式年遷宮の造営に必要な御造営用材(以下、御用材)を伐り出す山は、御杣山(みそまやま)と呼ばれ、御用材を伐り出すための山として厳格な管理がなされてきました。
皇大神宮(内宮)の御杣山は鎮座以来、神路山とされ、 豊受大神宮(外宮)の御杣山は高倉山でした。内宮外宮ともに神社後方に広がる山を御杣山として指定されていました。
内宮外宮ともに御杣山は神社後方に広がる
この神聖な山々は宮域林(きゅういきりん)、一般的には神宮林と呼ばれています。
神宮宮域林:神路山
両宮殿舎の建築に必要な御用材は、例えば寛永6年(1629年)には内宮1277本、外宮1323本の大木が必要でした。これらの御用材を確保するために、広大な山々である神路山や高倉山からの持続的な供給はしばしば困難を伴い、回数を重ねるにつれて御杣山を他の場所に移す必要が生じてきました。
その変遷は、両宮から近く、川下しなどで安全に運搬できる方法が取れる領域から始まり、徐々にその距離は離れ、近年では長野・岐阜両県にまたがる木曽山から伐出されることが慣例となっています。
内宮_御杣山の変遷
外宮_御杣山の変遷
神宮最大のお祭りであり、神聖な儀式として古来より受け継がれてきた式年遷宮を紡いでいくために、適切な森林管理を徹底していくことは、常に重要視されてきました。
第61回伊勢神宮御神木祭 昭和60年6月3日
特に、近世以降では木曽山からの伐出が大きな役割を占めていることから、木曽山の保護管理は徹底して行われてきました。
木曽檜の森林保全に向けて大きな契機となったのが、江戸幕府が開かれたことによる江戸城の建設、名古屋城築造、江戸城城下町の形成などで木曽檜が大量に伐採されたことによる資源の枯渇でした。資源が大幅に減少したことで、「尽山」と呼ばれるまでに至った木曽山を保護するため、江戸幕府直轄領の尾張藩は、木曽檜を守るために林政改革を行いました。
「檜一本首一つ」という言葉で後世まで伝えられた厳しい保護政策です。
御神木跡(第61回伊勢神宮御神木祭)左が内宮、右が外宮の切り株
尾張藩は59カ所を巣山として、植生の伐採を禁止する地域を策定し、住民の立ち入りを絶対的に禁じる制度。
面積としては、木曽全域の7%程度。
森林資源の減少に対処するために伐採禁止を明文化する林政改革を実施。住民の立ち入りも絶対禁止で、最も良い木がある山が選ばれました。
巣山・留山以外の区域の呼称。このエリアは住民が自由に立ち入ることが許され、生活に必要な木材や薪などを採取することができました。
巣山・留山以外の地(明山)では立ち入りが許可され、日常生活に必要な薪や木材などの採取が許可されましたが、1708年には檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、明檜(アスヒ)・槙(マキ)の四木を停止木とし、その後1728年 には鼠木(ネズコ)を加えた、いわゆる木曽五木を停止木と指定しました。
これにより、大樹の保護が図られました。
伐採時、特定樹種に限り、一定の直径以下の幼樹木伐採を禁止し、次代の更新を促進する制度。停止木のように絶対の禁伐木ではなく、村人が生活のために必要な時には伐採が許されていました。
藩の主たる財政収入である木材収入を確保するため、主伐期を迎えた樹木の約3割以内の伐採率で部分的に伐採する方法が取られるようになりました。
木曽檜天然林
明治4年(1871年)の廃藩置県によって藩帰属の林野の一部が国有となり、明治18年(1885年)に宮内省の中に御料局が置かれたことにより、御杣山は皇室の財産となりました。
その後、明治41年(1908年)に御料局は帝室林野管理局(現林野庁)と改称。大正11年(1922年)12月8日に、神宮司庁の所管となりました。
しかし、太平洋戦争終戦後、GHQによる神道指令によって、昭和21年(1946年)2月に神宮は、いち宗教法人として発足することになります。翌年の林政統一によって御料林は国有林に統合され、林野庁と改称してその所管に至ります。
明治期以降における御用材は、すべて木曽山林から伐出されました。しかし、明治42年(1909年)には、木曽山林から檜の大木を得るのは、困難な状況に陥り、木曽山林の全般にわたって檜の大樹が群生している区域を神宮備林とし、「神宮御遷宮制度」を設けて永久存続を期することにしました。
神宮備林については、永久と臨時の二種に分類。
現在ヒノキの大樹は少ないが永久に御用材を生産すべき地域とし、今後100年間は伐採を行わず、この期間中は後記の臨時備林によって必要を満たすことを明記。
永久備林の範囲は、中立・瀬戸川の御料林で面積1,886ha。
永久備林の伐採が可能となるに従って漸時解除する仕組みでした。
臨時備林は麝香(じゃこう)沢・萩原西山・天王洞・台ヶ峯・妻籠・男埵・賎母・三ヶ沢・北沢・井出ノ小路(いでのこうじ)・南木曽・ 薬師寺の御料林で面積6,452 ha, 合計 8,338 ha でした。
神宮林の範囲:赤が永久備林、橙は臨時備林を示す
おおよそ70年後の1976〜77年に、長野営林局は木曽檜天然林の皆伐跡地46箇所の樹齢構成を調査しました。
調査資料を菅原聡氏が解読推論したところによると、江戸中期以降に尾張藩が行なった木曽檜の保護政策が現代の森林資源の回復につながっていることが証明されています。
若い芽が自然に成長する天然更新
約200年間に及ぶ森林保全政策によって、現在の木曽檜林の樹齢は250〜300年生程度にまで成長しています。
約400年前に尾張藩が行なった森林保護政策は、現代の式年遷宮に、そして今を生きる私たちにとってかけがえのない存在となっているのです。
樹齢300年の木曽檜
前記の通り、式年遷宮は、天武天皇によって制定され、西暦690年から始まった皇統、皇室と国民、日本国民が一丸となって執り行う神事です。
神道と仏教、朝廷と幕府、国家観を揺るがす神道指令など幾度となく途絶える危機を迎えましたが、その度に伝統を守ろうとする篤い志は受け継がれ、今日まで続いています。
ここでは、如何にして式年遷宮が受け継がれてきたか、紹介していきます。
平安時代中期以降、律令制が破綻したことにより遷宮にかかる経費は役夫工米によって賄われてきました。この取り組みによって式年遷宮は重大な国家の事業であり、遷宮は国民挙げてのお祭りであるとの意義が広まり、神宮崇敬の念は遷宮ごとに高まりをみせていきました。
しかし、室町時代後期になると、役夫工米による遷宮費の徴収が困難になり、約120年(外宮は129年)あまりの間中断せざるを得なくなりました。
この間は、数回の仮殿遷宮によって雨露を凌いできました。
安土・桃山時代になると、慶光院清順の諸国行脚に先立ち、織田信秀の寄進によって機運が高まり、その意志を引き継いだ織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納し、復興することができました。
江戸時代もこうした敬神の念は徳川将軍家に受け継がれ、造営奉行に命じて式年遷宮の全面的な協力にあたらせ、明治新政府の国家主導の式年遷宮へと引き継がれました。
戦後GHQにより、国家神道観は払拭され、神道指令によって国家が神道行事に特別の保護を加えることを禁じられ、国家主導による神道行事のすべてが国家の手を離れました。式年遷宮も例外なく、この令に従わされました。
しかし、伊勢神宮の式年遷宮に当たって国の経費を支出することは禁止されましたが、 神宮そのものの造営が禁止されたわけではなく、 その後は現在行われている ように、国民の協賛のもとに国有林がその用材を供給しても何ら支障がないばかりでなく、国の文化資産の維持保存上からも意義あることと認識されました。
戦後の混乱と国民の大半が虚脱状態に陥っていた最中、式年遷宮の継承に向けて立ち上がったのが地元・宇治山田市長の北岡善之助氏でした。昭和23(1948)年春、氏は平和のための式年遷宮を標榜し、地元の伊勢商工会議所を中心とした市及び各団体が協力して「神宮御造営期成同盟会」を発足し、式年遷宮の継承を訴求しました。
官民一体となって、存続に向けて行動した結果、昭和28年秋、第59回式年還宮が1953年 (予定より4年延期)に執り行なわれると発表され、戦後の苦難を乗り越えたのでした。
そして、その伝統は現在の62回まで滞りなく続いています。
〈あとがき〉
度重なる困難を乗り越え、現在まで約1330年間受け継がれてきた神宮式年遷宮 −
政殿の中心が時代の変遷によって形態を変えようと、式年遷宮という古代制定された神事は途絶えることなく、今日まで続いています。その軌跡を辿っている時に、困難を迎える度に皇統と国民の絆がより強固になっていくように感じました。
20年に1度の式年遷宮を通じて、大御神様に新しいお宮へお遷りいただき気持ち安らかにお祀りすることは、私たち国民の安寧につながり、日本人特有の八百万の神様に感謝する心が、この式年遷宮には込められているように思います。
この精神が恒久的に受け継がれていくために、式年遷宮は必ず続けていかなければなりません。そのためにも、今ある山林や美しい自然を大切に出来なければ、100年後、200年後の日本の未来の自然体系を大きく変えてしまうという戒めでもあります。
20年に1度の式年遷宮を機会に、山林がどのような変遷を辿っているのか見つめるきっかけになれば幸いです。
©️2023 Yamato meiboku Lab.